益子修が死去:死因は心不全|経歴は?無免許(運転免許)と眉毛

三菱自動車の益子修前会長が死去いたしました。

死因は心不全ということで享年71ということです。

三菱商事に入社し商社で30年以上勤務した後に三菱自動車の立て直しのために送り込まれました。

自動車会でも特異な経歴の経営トップということでも注目を浴びておりました。

ネット上でも三菱自動車の再建に尽力した人物の死去ということで大きな話題になっているようです。

巷間漏れ聞くところでは自身は免許も持たず、ランエボの復活を言い出した幹部に怒声を浴びせたとか。ある意味クルマはどうでも良く、バランスシートの改善に全力を尽くそうと迷走されたのでしょう。

仕事を辞めて20日で亡くなるなんて、凄まじい生き方だと思う。

益子修が死去:死因は心不全

三菱自動車の前会長の益子修氏が死去いたしました。

益子氏の死因は心不全の病気ということです。

共同通信などが益子修氏の死去を下記のように報道しております。

 三菱自動車の益子修(ますこ・おさむ)前会長が8月27日、心不全のため死去した。71歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。故人の遺志で会社主催のお別れの会は開かない予定。

15年半にわたり経営トップを務めてきたが、8月7日に健康上の理由で会長職と取締役を退任したばかりだった。

1972年に三菱商事に入社。三菱グループによる支援の一環として三菱自に送り込まれ、2005年1月に社長に就任。リコール隠し問題で悪化した業績の立て直しに尽力した。09年発売の世界初の量産電気自動車(EV)「アイ・ミーブ」の開発などを主導し、東南アジアでの販売拡大にも注力した。

出典:共同通信

三菱自動車の前会長の益子修氏は三菱商事から送り込まれた人物です。

社長や会長含め合計で15年もの間三菱自動車のトップとして経営にあたってきました。

その経営手腕には賛否両論がありますが危機的な三菱自動車を救ったという評価の面では高いようです。

経歴と無免許(運転免許)とは

益子修で注目されていたのは運転免許がなく無免許だったということでしょう。

運転免許のない自動車メーカーのトップは世界中でもほとんど例がありません。

そして益子氏の経歴は下記のようになっております。

海城高等学校、早稲田大学政治経済学部経済学科[1]を経て、1972年に三菱商事へ入社。同社で自動車畑を歩み、韓国、インドネシアなどの商圏拡大に辣腕を振るった。2003年より同社執行役員・自動車事業本部長に就任。

2004年、大規模なリコール隠しの発覚により深刻な経営危機に瀕していた三菱自動車工業の再建を託され、同社へ転籍し、代表権を有する常務取締役(海外事業統括)へ就任し、翌2005年1月から同社の代表取締役社長となった。

2014年6月に会長に就任し、新設されたCEO職を兼務。

そして2020年8月7日に健康を理由に会長を辞しております。

会長職を辞めたその20日後に心不全で死去いたしました。

ぎりぎりまで会長職で仕事にかかわっていたということがわかります。

眉毛

益子修氏に関して調べていると「眉毛」という単語が検索結果に出てきます。

この「眉毛」という文字はなぜ出てくるのでしょうか。

益子氏の眉毛は確かに特徴がありネット上ではそれが注目されており検索する方が多いので単語が出てくるようです。

ネットの反応

益子修氏の死去は経済界にも影響を与えそうです。

15年もの長きにわたり自動車会社のトップを務めてきたということで三菱自動車内では社内力学へ影響を与える模様です。

自動車には興味なくて、商事から片道切符で来ちゃった感満載だったからなぁ
まぁ、三菱本体としては(名前は使われてるものの)日産に不良債権的なのを渡すことができたから、この人のことはある程度評価してるのでは

益子さん。
経営者として、リコール隠しやダイムラーから三下り半を突き付けられて崖っぷちだった三菱自工を潰さなかった点は、大きな功績でしょう。
その反面、三菱を代表する車種を次々とリストラし、新規車種の導入も最小限にして、販売台数は低迷・・・。

惜しむらくは、「長期政権」すぎた事でしょう。

興味がありそうにない自動車業界に送り込まれて、免許も持ってないとかランエボを潰したとか、悪いことを書かれて(実際そうだったなら全く社長の器ではなかったんだが)ある意味かわいそうな晩年だったのかも。

三菱自動車はこの方が指揮を執っていてもどんどん泥沼に潜るばかりで、こんな会社を再建なんて、本人としては引き受けたくなかったんだろうな…と思う。

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